レジュメ『スピヴァク、日本で語る』
2009/09/27/Sun
9月5日(第76回)研究会のレジュメです。
『スピヴァク、日本で語る』 2009/09/05
■ 人文学における学問的アクティヴィズム Academic Activism in the Humanities
・植民地解放闘争における集団的連帯の構築における問題
→抑圧をその手段とすることでそれ以前の「自由の実践」を忘却
→集団性のアイデンティティ・ポリティクスへの変質
⇒人文学の教室での実践
:責任ある自由の実践を通じて持続性のある集団的結びつきを創造
・伝統的知識人/有機的知識人(グラムシ)の区別の解体
‥アクティヴィズムの担い手としての知識人像のため、
想像力それ自体を育成=変革する必要
他方、現実として「教える」活動そのものが区別を解体
:教育は遂行的言語行為であり、意図と結果が合致しえない逆説的状況にある
→来たるべき「出来事」としての教育
・「グローバリゼーション」との対決
人文学:「教えることに関わる何か」
→グローバリゼーションが「偽りの約束」をするために文化的下部構造へ最小限に接近する場において、反対に「無条件的な倫理と深い言語学習」を通じて文化的下部構造に最大限に接近する
※両者の関係について:外国語の学習は想像力を鍛える活動だが、想像力を鍛えることは必ずしも倫理的なものに結びつかない
‥教育は形式であって内容ではない
・深い言語学習の重要性
「人文学のゆっくりとした教育ペースによってもたらされる頭や心の変化」
‥方向性そのものの転換
⇔帝国的主体の他者として措定されるアイデンティティの力学
科学の進歩による頭や心の構造への即応関係
※ポストコロニアルの完全否定ではない
Ex. 沖縄などでの重要性は残るが、それをすべての地域に当てはめることはできない
・グローバリゼーションを「代補する」仕事
≠反グローバリゼーション
「代補」:グローバリゼーション内部の欠陥を一見補填するが、長期的にはそれに代わりうる危険な営み
しかし、この時その代補は空白の中からこそ出てくる要素
‥相手を優れたものとして想像する必要
・比較をしないことが重要
∵「自分の手に入らないものをけなすような種類のナショナリズムを隠して」いる
←現在のナショナリズムについて示唆:ナショナリズムそのものがきわめて西洋的・近代的な民族主義の内部に取り込まれており、西洋との比較にとらわれている
・体験的判断と理論的判断の峻別
→阿波根昌鴻、ロケヤ・サクハワト・ホサイン
Ex. 幽閉がどのようなものか?
→体験的判断のみでは自己免疫的
理論的判断の洗練を通じて自己の体験の外へ想像力を及ぼすことが大切
■ 比較文学再考 Rethinking Comparativism
・再考対象:比較文学のヨーロッパ中心主義性など(p. 165参照)
→1960年代:諸文化・諸文学の「類縁性」(affinity)の発見 Ex. トポス論
⇔類縁性は排除により機能
→社会経済的現実を覆い隠すアリバイとしての役割を果たす危険
⇒再考の出発点:諸言語の「等価性」(equivalence)
‥「言語記憶」の「メタ心理学的回路」の刻印の機能という次元において
※母語:自発性/外国語:人為性の対立を意味しない
→深い言語習得を通じて、等価性の幻影の境位のなかで言語的記憶の模像の生産=能動的な実践としての翻訳
⇒国家や文化を脱中心化し、様々な言語や文学が国家と結びついた言語の制約の外部
で相互の連帯、「サバルタン的集合性」を樹立
・方法論:個々の語法(イディオム)に注目し、テクスト分析をもとに論証を行い、レトリックの中にロジックを、ロジックの中にはレトリックを組み立てる技術
・「希望」読解
‥継ぎ目の外れた題:植民地<以降>における決定不可能な未来を待ち望む
「供犠と自殺」→「最終手段としての比較実践」
:米国/沖縄という政治的対立の場において、「政治的他者」(米国)に対する自分(沖縄)の等価性をそれによって承認し、自分に応答し、抑圧の停止を訴える行為
←倫理と政治のダブルバインドを可視化
:「政治的状況は犠牲の暴力を必要とする」
⇒「今オキナワに必要なのは、数千人のデモでもなければ、数万人の集会でもなく、一人のアメリカ人の幼児の死なのだ」
‥倫理的主体と政治的活動のダブルバインドのもと、この主体/主題をこの世の入れ物/封筒に閉じ込めることの不可能性
→時間描写
・支配者側のダブルバインド:政治/ナショナリズムと倫理/責任
←ダブルバインドを同じ強度で体験はしない
大江:ダブルバインドからの逃避欲求
「日本人ではないところの日本人へ自分を変えることはできないか」
‥ナショナリズムが責任を伴うゆえに苦悩
⇔日本政策研究所:ダブルバインドの否認
「アメリカ人は、目取真の主題と筆致にショックを受けるであろう」
‥アメリカ人であることを肯定し、ナショナリズムと責任を切り離す
・偶発的・巧妙な仕掛け→政治的活動と民衆との断絶の存在
Ex. 本土において沖縄を「サヨク」の島という言説が行きかうが、実際は沖縄は保守勢力が強く、それに迎合して保守的主張を行う学者は優遇されるほど
(目取真俊のブログより)
■ 他のアジア Other Asias
複数化されたアジア(Asias)を想像する
・複数化されたアジア
:差異を寛容するのみならず、差異を理解しようとする努力を続ける場所
←差異を断絶とみなすリベラル多文化主義との違い
⇒知識に裏付けされた想像力の鍛練
‥文学的想像力に加え、社会経済政治における知識の重要性
倫理的衝動によって権力への欲望を中断させる想像力
(⇔汎アジア主義:個別性が全体化し、その全体のなかの一つの多様性として差異が位置付けられる)
・「もう一つ」のアジア
→不連続なエピステーメー空間:都市/農村間 ×歴史的
→未来の有権者である農村の人々が資本を社会的なものに向けるため、民主主義の習慣としきたりを学ぶ重要性
・超越的なものの直観(「超越的」:カント的意味)
‥「存在しないものを思考する能力」としての想像力を用いることで超越的なものを宗教的なものから切り離すことが可能に
=世俗主義の仕事
・想像力の最小限の定義:「存在しないものを思考する能力」
⇒欲望の再編成の開始地点
※自動的にアジアを複数化する想像力とはならない
そのために想像力の訓練は必要条件であるが十分条件とはならない
ポストコロニアリズムとグローバリズム
・二つの仕事の違い
ポストコロニアルな状況に接する際、ポストコロニアリズムはその地域の内部においてより密着し、その土地に固有の語法を理解しておく必要があるが、グローバリゼーションは俯瞰的な視点からその地域の外郭を見ていくのでその必要がない。
デリダとフーコーにおけるヨーロッパ的アプローチ
・倫理=政治的実践におけるデリダの有用性
ヨーロッパ中心主義への批判的姿勢⇔ヨーロッパを中心化の危険
(Cf.「責任=応答可能性」
階級の差異が文化の差異となり、異なるエピステーメー空間を占める人々から、啓蒙主義の遺産を背負っているなかで、いかにして学ぶことができるかという問い
「フーコーとナジブラー」
歴史の進展に伴うエピステーメーの変化に関するフーコーの結論を再考)
・ポストコロニアル理論の多様化
→アジアを「複数化」する必要
スペシャリズムとジェネラリズム
・ジェネラリズム:「思考の手助けとなる学識をかき集めて関係性を見出す」
→利点:臨機応変な対応⇔問題:無知からくる憶測
⇒スペシャリズムによる代補
‥専門家(スペシャリスト)の側の寛大さが望まれる
←ジェネラリズム・スペシャリズムの生産的共同作業の構想
Ex. ジェネラリスト:救急医療士/スペシャリスト:医者
→「ボランティアの医者」による代補
・「アジア」を想像すること
‥アイデンティティ主義に陥ることなく、また雑種性といった決まり文句に頼ることなくポストコロニアリズムにおいて立ち位置をみつけるため
→「アジア」という名称:場所ではなく、歴史と文化政治学から大きな足跡を残されているために、自然化・均質化されたアイデンティティ形成を妨げる
・単独性の問題
あらゆる存在は反復可能な差異を共有
⇒単独性における普遍主義 / ⇔理性的普遍主義
←ダブルバインド
‥行為体(agency)/意図する主体(intending subject)の区別に相応
「単独性の共同体」
⇔単独性は無意識に関係する領域
→議会制民主主義における投票行為に直接結び付けることは不可能
→ダブルバインドとの交渉
『スピヴァク、日本で語る』 2009/09/05
■ 人文学における学問的アクティヴィズム Academic Activism in the Humanities
・植民地解放闘争における集団的連帯の構築における問題
→抑圧をその手段とすることでそれ以前の「自由の実践」を忘却
→集団性のアイデンティティ・ポリティクスへの変質
⇒人文学の教室での実践
:責任ある自由の実践を通じて持続性のある集団的結びつきを創造
・伝統的知識人/有機的知識人(グラムシ)の区別の解体
‥アクティヴィズムの担い手としての知識人像のため、
想像力それ自体を育成=変革する必要
他方、現実として「教える」活動そのものが区別を解体
:教育は遂行的言語行為であり、意図と結果が合致しえない逆説的状況にある
→来たるべき「出来事」としての教育
・「グローバリゼーション」との対決
人文学:「教えることに関わる何か」
→グローバリゼーションが「偽りの約束」をするために文化的下部構造へ最小限に接近する場において、反対に「無条件的な倫理と深い言語学習」を通じて文化的下部構造に最大限に接近する
※両者の関係について:外国語の学習は想像力を鍛える活動だが、想像力を鍛えることは必ずしも倫理的なものに結びつかない
‥教育は形式であって内容ではない
・深い言語学習の重要性
「人文学のゆっくりとした教育ペースによってもたらされる頭や心の変化」
‥方向性そのものの転換
⇔帝国的主体の他者として措定されるアイデンティティの力学
科学の進歩による頭や心の構造への即応関係
※ポストコロニアルの完全否定ではない
Ex. 沖縄などでの重要性は残るが、それをすべての地域に当てはめることはできない
・グローバリゼーションを「代補する」仕事
≠反グローバリゼーション
「代補」:グローバリゼーション内部の欠陥を一見補填するが、長期的にはそれに代わりうる危険な営み
しかし、この時その代補は空白の中からこそ出てくる要素
‥相手を優れたものとして想像する必要
・比較をしないことが重要
∵「自分の手に入らないものをけなすような種類のナショナリズムを隠して」いる
←現在のナショナリズムについて示唆:ナショナリズムそのものがきわめて西洋的・近代的な民族主義の内部に取り込まれており、西洋との比較にとらわれている
・体験的判断と理論的判断の峻別
→阿波根昌鴻、ロケヤ・サクハワト・ホサイン
Ex. 幽閉がどのようなものか?
→体験的判断のみでは自己免疫的
理論的判断の洗練を通じて自己の体験の外へ想像力を及ぼすことが大切
■ 比較文学再考 Rethinking Comparativism
・再考対象:比較文学のヨーロッパ中心主義性など(p. 165参照)
→1960年代:諸文化・諸文学の「類縁性」(affinity)の発見 Ex. トポス論
⇔類縁性は排除により機能
→社会経済的現実を覆い隠すアリバイとしての役割を果たす危険
⇒再考の出発点:諸言語の「等価性」(equivalence)
‥「言語記憶」の「メタ心理学的回路」の刻印の機能という次元において
※母語:自発性/外国語:人為性の対立を意味しない
→深い言語習得を通じて、等価性の幻影の境位のなかで言語的記憶の模像の生産=能動的な実践としての翻訳
⇒国家や文化を脱中心化し、様々な言語や文学が国家と結びついた言語の制約の外部
で相互の連帯、「サバルタン的集合性」を樹立
・方法論:個々の語法(イディオム)に注目し、テクスト分析をもとに論証を行い、レトリックの中にロジックを、ロジックの中にはレトリックを組み立てる技術
・「希望」読解
‥継ぎ目の外れた題:植民地<以降>における決定不可能な未来を待ち望む
「供犠と自殺」→「最終手段としての比較実践」
:米国/沖縄という政治的対立の場において、「政治的他者」(米国)に対する自分(沖縄)の等価性をそれによって承認し、自分に応答し、抑圧の停止を訴える行為
←倫理と政治のダブルバインドを可視化
:「政治的状況は犠牲の暴力を必要とする」
⇒「今オキナワに必要なのは、数千人のデモでもなければ、数万人の集会でもなく、一人のアメリカ人の幼児の死なのだ」
‥倫理的主体と政治的活動のダブルバインドのもと、この主体/主題をこの世の入れ物/封筒に閉じ込めることの不可能性
→時間描写
・支配者側のダブルバインド:政治/ナショナリズムと倫理/責任
←ダブルバインドを同じ強度で体験はしない
大江:ダブルバインドからの逃避欲求
「日本人ではないところの日本人へ自分を変えることはできないか」
‥ナショナリズムが責任を伴うゆえに苦悩
⇔日本政策研究所:ダブルバインドの否認
「アメリカ人は、目取真の主題と筆致にショックを受けるであろう」
‥アメリカ人であることを肯定し、ナショナリズムと責任を切り離す
・偶発的・巧妙な仕掛け→政治的活動と民衆との断絶の存在
Ex. 本土において沖縄を「サヨク」の島という言説が行きかうが、実際は沖縄は保守勢力が強く、それに迎合して保守的主張を行う学者は優遇されるほど
(目取真俊のブログより)
■ 他のアジア Other Asias
複数化されたアジア(Asias)を想像する
・複数化されたアジア
:差異を寛容するのみならず、差異を理解しようとする努力を続ける場所
←差異を断絶とみなすリベラル多文化主義との違い
⇒知識に裏付けされた想像力の鍛練
‥文学的想像力に加え、社会経済政治における知識の重要性
倫理的衝動によって権力への欲望を中断させる想像力
(⇔汎アジア主義:個別性が全体化し、その全体のなかの一つの多様性として差異が位置付けられる)
・「もう一つ」のアジア
→不連続なエピステーメー空間:都市/農村間 ×歴史的
→未来の有権者である農村の人々が資本を社会的なものに向けるため、民主主義の習慣としきたりを学ぶ重要性
・超越的なものの直観(「超越的」:カント的意味)
‥「存在しないものを思考する能力」としての想像力を用いることで超越的なものを宗教的なものから切り離すことが可能に
=世俗主義の仕事
・想像力の最小限の定義:「存在しないものを思考する能力」
⇒欲望の再編成の開始地点
※自動的にアジアを複数化する想像力とはならない
そのために想像力の訓練は必要条件であるが十分条件とはならない
ポストコロニアリズムとグローバリズム
・二つの仕事の違い
ポストコロニアルな状況に接する際、ポストコロニアリズムはその地域の内部においてより密着し、その土地に固有の語法を理解しておく必要があるが、グローバリゼーションは俯瞰的な視点からその地域の外郭を見ていくのでその必要がない。
デリダとフーコーにおけるヨーロッパ的アプローチ
・倫理=政治的実践におけるデリダの有用性
ヨーロッパ中心主義への批判的姿勢⇔ヨーロッパを中心化の危険
(Cf.「責任=応答可能性」
階級の差異が文化の差異となり、異なるエピステーメー空間を占める人々から、啓蒙主義の遺産を背負っているなかで、いかにして学ぶことができるかという問い
「フーコーとナジブラー」
歴史の進展に伴うエピステーメーの変化に関するフーコーの結論を再考)
・ポストコロニアル理論の多様化
→アジアを「複数化」する必要
スペシャリズムとジェネラリズム
・ジェネラリズム:「思考の手助けとなる学識をかき集めて関係性を見出す」
→利点:臨機応変な対応⇔問題:無知からくる憶測
⇒スペシャリズムによる代補
‥専門家(スペシャリスト)の側の寛大さが望まれる
←ジェネラリズム・スペシャリズムの生産的共同作業の構想
Ex. ジェネラリスト:救急医療士/スペシャリスト:医者
→「ボランティアの医者」による代補
・「アジア」を想像すること
‥アイデンティティ主義に陥ることなく、また雑種性といった決まり文句に頼ることなくポストコロニアリズムにおいて立ち位置をみつけるため
→「アジア」という名称:場所ではなく、歴史と文化政治学から大きな足跡を残されているために、自然化・均質化されたアイデンティティ形成を妨げる
・単独性の問題
あらゆる存在は反復可能な差異を共有
⇒単独性における普遍主義 / ⇔理性的普遍主義
←ダブルバインド
‥行為体(agency)/意図する主体(intending subject)の区別に相応
「単独性の共同体」
⇔単独性は無意識に関係する領域
→議会制民主主義における投票行為に直接結び付けることは不可能
→ダブルバインドとの交渉
スポンサーサイト