2005/11/28/Mon
昨日、名古屋の「在日朝鮮人作家を読む会」に参加して来ました。
『在日コリアン詩選集』土曜日術者2005の戦後篇の前半までが対象でした。
戦前の、つまり解放前と比べると、はるかに表現が直接的になり、当たり前のことですが、いかに戦前の言論抑圧がひどいものであったかがよくわかりました。
多くの在日の方から、涙が出そうで読みづらかった、という感想が。
詩というメディアは、散文よりも、より直接的な表現が多いので当然かも知れません。分断された故郷への「望郷の念」や、貧困・差別の中の生を歌った詩は、なかなか身につまされるものがあります。ご一読あれ。参加者は11名でした。(二次会は9名・三次会は3名・笑)
先日、西岡さんから、梅田の「太陽」が、12月は予約が取れた、という連絡が入りました。したがって、来月はいつもどおり「太陽」で行います。西岡さん、ご苦労様でした。
集合は、2時15分。梅田の紀伊国屋前。
2005/11/23/Wed
昨年岩波から出た坂元ひろ子さんの書。
5・4(1919)期の新文化運動において、「恋愛」や「人種」「優生学」がどのように言説上に現れているかを、「博捜」とも言える丁寧な資料探索に基づいて論じられている。
「国民」の創生過程が如実にわかって、なかなな楽しい書物でした。
また子安宣邦氏の新刊、『本居宣長とは誰か』(平凡社新書2005)は、平易に書かれた宣長論。でも内容は必ずしも平易には書かれていない。
ご一読あれ。
北田暁大『責任と正義ーリベラリズムの居場所』ケイ草書房2003は、第三章まで、ポストモダンの思想状況を概観して批判しているところは、大いに刺激を受けたが、第四章以後、「制度の他者」といかに対話が可能か、という考察、筆者自身による自説の展開に入ると一挙に精彩を欠く議論のように感じたのはなぜだろうか、という疑問があります。
19日の土曜日、子安氏の「懐徳堂研究会」で、「原理主義者 折口信夫」を発表しました。その関係で、先週まで、忙しい思いをしました。
でも、語源学の問題を考えていて、デリダの「白けた神話ー哲学テクストの中の暗喩」などに出会ったのは収穫でした。「白けた神話」とは西洋の形而上学のことを言うのですが、集英社の「世界文学全集38 現代評論集」(1978)に所収のものなので、今まで目に入らなかった。いわば「批評言語論」とでも言うべき論文。一読してはなかなか内容を取りづらい。二度目は流し読みしてようやく概要が頭に入りました。
ついでにスピヴァクの『デリダ論』(平凡社ライブラリー2005)も読みました。(相変わらずややこしい書き方をしています)
これから「白楽晴論」にかかります。来春完成の予定。
2005/11/12/Sat
平凡社から2001年に出た金石範・金時鐘両氏による対談の書です。副題が「済州島4・3事件の記憶と文学」とあります。西川さんが「4・3事件」の研究をされていますが、まさにその出来事についての一冊です。
石範氏は、短編「鴉の死」以来、済州島を背景に4・3事件をめぐる作品を多く発表されて来ました。彼自身は済州島が故郷ではありますが、日本で育っています。ただ、簡略化して言えば、事件当時半島にいなかったことが、事件にまつわる作品を書く契機。
一方、時鐘氏は、4・3事件の当事者。パルチサンとして李承晩・アメリカ軍政府に対して闘う側に参加し、九死に一生を得て日本に密航して来たのですが、その「逃げてきた」、多くの虐殺をもたらしたことが負い目になり、今まで沈黙を続けて来たのでした。
韓国では、2000年に「済州4・3事件特別法」ができて、死者の名誉回復がなされていますが、同書にあるように、殺した側の責任追及がいまだなされていません。
韓国も日本の軍国主義者と同じく、「共産主義との戦い」のために、「親日派」が台頭して、90年代までの軍国政権を支えて来ました。アメリカの責任は重いこと限りありませんが、そのことも問われることがありません。
ジョン・ダワーの『敗北を抱きしめて』(岩波2002)も、「一国史」的叙述のために、この出来事は口を緘し、東アジアの問題をあたかもマッカーサー一人の独断のように語っています。この隙間を埋めるのが、西村秀樹氏の『大阪で闘った朝鮮戦争』でもあります。
なぜ朝鮮半島が分断されたか、なぜ統一されないのか、を考える上で、とても重要な問題が4・3事件。
4・3事件の究明は韓国現代史のみならず、日本の「戦後」を考える上でも逸することの出来ない問題でしょう。一読を勧めます。
そういえば、先ごろ「コースト・ガード」という韓国映画を見ました。チャン・ドンゴン主演。38度線付近の海岸をガードする部隊の一兵士が、過って民間人を射殺し・・・・
ついでに、「グッバイ・レーニン」というドイツ映画も面白かった。ベルリンの壁の崩壊をコミカルにかつリリックに描いた秀作。資本主義批判のメッセージが作品を奥行きのあるものにしている。
また井筒監督の「パッチギ」もなかなかの秀作。ご一覧あれ。
2005/11/06/Sun
10月9日に第28回研究会を行いました。
参加者は荒牧さん、西岡さん、木曾さんでした。(ちょっと寂しかった)
次回29回は、11月6日(日) 2時半から。
場所はいつもの梅田の「太陽」別館。
扱う書籍は、テッサ・モリス・スズキ『自由を耐え忍ぶ』岩波書店
報告者は、荒牧さん
「市場の社会的深化」を論じたテッサさんの書は、『帝国を壊すために』のアルンダティ・ロイ同様、アメリカを中心とする資本主義の暴力を鋭く問題化しています。
荒牧さんが二次会に参加してくれました。でも、阪急梅田東商店街へ行きましたが、あまりいい店でなく、ちょっと店の人と口論しました。(笑い)
梅田でいい店を見つけたいものです。
2005/11/04/Fri
次回研究会が明後日に迫りました。皆さん、準備はよろしいでしょうか?
なお、当日の会場は、いつもの「太陽」ではなく、K塾の大阪校S館505号教室です。なお、集合はいつものように、2:15、紀伊国屋梅田店前です。
では、また6日の日曜日にお会いしましょう!!!
2005/11/03/Thu
今回は「職業としての政治」(マックスウェーバー)≪以下「職業」≫と「自由を耐え忍ぶ」≪以下「自由」≫を読んでの比較を述べたいと思います。
「職業」では国家の定義が「暴力の独占」とされており、大学の授業でもこれが国家の特質として捉えられています。
しかし「自由」を読むと戦後、国家は「暴力」の「民営化」と呼ばれるような流れの中でその性質を変えているようです。
国の「ワイルドゾーン」が拡大していく中で政治学科の教授がそれを教えないでいいのであろうかと疑問を抱くとともに、国家を監視するための制度の再編成が必要ではないかと思いました。
しかしその問題に取り組むだけの学問の体系ができていない!!!
「自由」で指摘されている通りこの問題は複合的な視点が必要であるため、従来の「政治学」「経済学」「社会学」などの明治以来のくくりでは不十分であるのは間違いないでしょう。
この点をふまえてサイードが言うような「アマチュア」化の必要性を感じました。
PS、この前の価値観云々について申し上げておきます。
私はもう「自分が今何をしたいか」に正直に生きようと思います。ですからそのためにアンテナを広げてどんどん本を読むだけでなくさまざまな経験をしようといろいろ動いている次第です。
今回もこのような愚文を読んでいただきありがとうございました。