2005/07/23/Sat
立花です。日本での「戦後」責任の問題を、高橋哲哉氏の書を借りて考えようというのが、次回8月の研究会です。
先ほど、夕刊を見ると、エジプトで「連続テロ」、「50人死亡」とありました。欧米を中心とする資本主義(と民主主義)が世界を席巻し、その周辺(や外部)の世界が抑圧に苦しんでいることの反映だとも、言えるでしょうか。アラブ世界も石油で潤っている人たちとその恩恵を一向に被ることのないない人々とがいます。アフリカでは3秒に一人、人が亡くなっているとか。
18、9世紀からの欧米の圧倒的な経済力と軍事力による世界植民地化。その結果が顧慮されることなく、米ソを中心とするイデオロギー戦争(東西冷戦)の影響下、第二次世界大戦後の世界は始まりました。そこでは、欧米中心主義(植民地化)が反省されることなく、いっそう加速されたがために、また第二次大戦後は、軍事力を伴う侵略ではなく、経済的な侵略の形をとり、多くの人々がその問題に気づかないまま、今とてつもなく大きな代償を払う出来事となって復讐されているのだとも言えるでしょうか。
いずれにしろ、「テロとの戦い」は、「戦争」の様相をはっきり呈して来ました。日本も例外ではないでしょう。私たちはもう一度、9・11に遡るというより、18、9世紀の植民地主義からの反省を余儀なくされているように思われます。
では、8月7日の日曜日に会いましょう!!!
高橋哲哉著『戦後責任論』、読んで来てください。
2005/07/17/Sun
昨日7月16日、大阪で懐徳堂研究会がありました。子安宣邦氏主宰の研究会です。
ここずっと忙しく、久しぶりに参加できた次第。1時から2時半まで「宣長における「古道学」の成立」という講義、3時から5時までは「「教育」の成立と「学び」の喪失」という講義でした。
実証学者宣長とナショナリスト宣長、戦後は前者を救い取る形で宣長は生きてきた。加藤周一氏がその分裂(と解釈)を「宣長問題」として提起したのだが、子安氏は、そのように二つの側面の切断を前提にする言説こそが問題だと新たな「宣長問題」を提起していたのが思い出されます。
今回の講義は、「古事記伝」という実証的作業を、古道に対する確言をもたらすものとして捉え直す試みでした。
興味深く拝聴。刺激的な午後でした。
2005/07/04/Mon
立花です。昨日大阪の梅田にある喫茶「太陽」の別館で、研究会をしました。
報告者は北岸君。扱った書籍は鄭暎惠著『民が代斉唱』でした。
参加者は、木曾さん、西川さん、西岡さん、立花
かなり活発な議論が展開され、3時間があっという間でした。
さて、次回26回8月研究会は、7日の日曜日、場所は7月と同じ。
報告者は、木曾さん。
高橋哲哉著『戦後責任論』講談社学術文庫
2時15分に、梅田の紀伊国屋前(ビッグマン下)に集合して下さい。そこから歩いて10分ほどです。
2005/07/01/Fri
立花です。トニ・モリスンに『白さと想像力ーアメリカ文学の黒人像』朝日選書1994年があります。
近いうちに、これも研究会で取り上げたいものです。今月号の雑誌「思想」がアメリカについての論文が多いので参考になるかも。
同じく7月号「思想」に、朴祥美という方が「「日本帝国文化」を踊るー崔承喜のアメリカ公演(1937〜1940)とアジア主義」と題して、1969年に北朝鮮で死亡した「朝鮮人舞踊家」のことを書いています。関心のある方はご一覧あれ。
それから、ベトナム出身のトリン・T・ミンハがアフリカのことを書いていましたが、ケニアやガーナなど、アフリカのこともこれから研究会で取り上げたいですね。
西岡さん、どのようなものを読めばいいのか、またご教示下さい。
南米なら、西川さんに聞けばいいのでしょうか?
皆さん、専門分野で、これを読めばいい、あるいはこれは必読、という書籍があれば、ぜひ紹介して下さい。
2005/07/01/Fri
立花です。研究会が明後日と迫って来ました。もう『民が代斉唱』は読まれましたか?
玄月氏の『陰の棲みか』『悪い噂』を読みました。『異物』を理解するに大いに参考になるだろうと。たしかに参考にはなりましたが、彼の描く暴力と性が気になります
隠された「或る出来事」を中心に、そこに至る過程をサスペンス風に描くのが彼のスタイル。梁石日氏の作品同様、「暴力」が大きな位置を占めており、その「暴力」が肉体的なそれであること、換言すればもっと大きな「暴力」にはあまり関心がないようにも見えるところが問題です。
また「性」。女性の描き方というか、女「性」がすべてステレオタイプであることに違和感を感じます。男性の描く「女性」でしかないようにも。玄月氏の「女性」への視線には、永井荷風同様、その実存を軽視するような、流行の言葉で言えば「オリエンタリズム」を感じるのです。
最後に、在日朝鮮人やニューカマー、あるいは在日中国人などが登場し、極めて「現代」的な状況を踏まえているところに評価すべき点のあるのは理解できますが、彼らが、つまるところ作品の「素材」に終始しているところに、疑問を抱きます。
彼らの存在が作品としての小説世界を複雑かつ豊かにしているのはわかるのですが、そこからひとつのメッセージを読むことができない。彼らの存在がどのような意味を持つか、に対する省察を抑えている、あるいは敢えて記さないことで、作者はどのようなメッセージを読者に伝えようとしているのか? そこが不明なようにも。
「性と暴力」も、同じような気がします。それらすべてが作品の素材と化し(換言すれば、単純な意味での面白さは出てくるのですが)、強固なメッセージをけっして形成していかないという風に読めてしまうのです。こちらの読み方が悪いのかしら、と今、考え中です。
岩波から「一冊でわかる」というシリーズ(笑ってしまいますね)があり、ジョナサン・カラー『文学理論』を読みました。
ジョナサン・カラーはかつて岩波現代選書『ディコンストラクション』という面白い書を読んでいたので期待していましたが、イマイチでした。入門書というので、あまり踏み込んだ議論をしていないせいでしょうか。
文学における「受容理論」、近代の作者中心主義から、バルト以降、読者中心へと視点の転換が行われました。たとえばH・R・ヤウスの『挑発としての文学史』(岩波現代文庫)、W・イーザー『行為としての読書』(岩波現代選書)などに詳しいのですが、70年代のことでした。その後、いわゆるデリダの「脱構築」を文学に持ち込んだ形での仕事が、米国ではジョナサン・カラーやポール・ド・マン(『理論への抵抗』など)、1980年代のこと。
スピヴァクやレイ・チョウはその後の世代です。90年代に入って、確かスピヴァクはド・マンに教えを受けたはずですが、いわゆる「ポスト・コロニアリズム」と呼ばれる運動を始めます。もっともすでにサイードは『オリエンタリズム』(1978年)で「ポスト・コロニアリズム」の先鞭をつけていましたが。
世代や年代で区切るのには問題があるものの、流れとしては上記のように整理できるかも知れません。